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新潟県新発田市


しばたじょう

新発田城 (新潟県新発田市大手町)
天守:なし  日本100名城。  
戦国期の主な歴史
鎌倉時代初期に新発田家によって築城されたと伝わる。以後、新発田家が歴代城主をつとめる。
1581年 新発田重家が論功行賞の不満から上杉景勝に対して反乱を起こす。
1587年 豊臣秀吉の後ろ盾を得た上杉景勝により、新発田重家の反乱が鎮圧される。
1598年 上杉景勝、会津へ移封。溝口秀勝が6万石で入封。以後、明治維新まで溝口家が歴代城主をつとめる。
(メモ)
 本丸表門、旧二の丸櫓は現存で国の重要文化財にしてされている。旧二の丸櫓は、本丸・鉄砲櫓跡に移築されている。
 辰巳櫓と三階櫓が復元されているが、三階櫓は、自衛隊駐屯地(二の丸跡)に復元されているため、中には入れない。
 赤穂浪士四十七士随一の剣士・堀部安兵衛の生誕地でもある。
辰巳櫓(復元) 本丸表門(重要文化財) 旧二の丸隅櫓(重要文化財)



かすがやまじょう


春日山城遠景

城跡にたつ上杉謙信像
春日山城 (新潟県上越市中屋敷)
天守:なし  日本100名城  日本五大山城  日本五大山岳城
戦国期の主な歴史
南北朝時代に越後守護・上杉家によって築城されたといわれる。
1507年 守護代・長尾為景が守護・上杉房能を敗死させて居城とする。
1536年 為景隠居。晴景が家督を継いで城主となる。
1548年 守護・上杉定実の仲介により、晴景が隠居、景虎(謙信)が城主となる。
1550年 定実が跡継ぎなく病没。将軍・足利義輝により景虎が守護代行となる。
1578年 謙信病没。家督争い「御館の乱」が起こる。
1579年 上杉景勝が「御館の乱」を制して城主となる。
1598年 景勝、会津へ転封。堀秀治が入城する。
1606年 秀治病没。忠俊が城主となる。
1607年 忠俊が福嶋城を完成させ廃城となる。

(メモ)
 いわずと知れた上杉謙信の居城。典型的な戦国期の山城で規模は大きい。遺構がしっかり整備されており、縄張りが分かりやすい。
 謙信が戦勝祈願などを行ったとされる毘沙門堂が復元されており、かつて中には復元とはいえ、高村光雲作の毘沙門天が安置されていた。1569年、大河ドラマ「天と地と」の放映に伴い、現在は盗難防止のため青銅製の毘沙門天に置き換えられている。
 期間限定かもしれないが、山の麓にある埋蔵文化財センターと城跡入り口、そして林泉寺を循環する無料シャトルバスが運行しており、たいへんありがたい。
 林泉寺、高田城(続日本100名城)をセットで行くのをおススメする。
本丸跡 直江屋敷跡 柿崎屋敷跡
毘沙門堂(復元) 上杉景勝屋敷跡 米蔵跡(手前)と三の丸跡(奥)



りんせんじ

春日山林泉寺 (新潟県上越市門前)
 1497年に越後守護代・長尾能景(謙信の祖父)によって創建された長尾家の菩提寺。

 長尾虎千代(のちの上杉謙信)が7歳から14歳まで修業をした寺でもある。虎千代は、父・為景の死後、兄・晴景を助けるために寺を出て元服。名を長尾景虎と改め、晴景に代わって軍勢を率いて反乱分子を鎮圧した。しかし、この活躍が晴景との対立を生むことになり、最後は守護・上杉定実の仲介によって景虎が長尾家の家督を継ぐことになった。

 1561年に景虎が上杉憲政から関東管領職と上杉姓を受け継ぎ、名も憲政から「政」の一字をもらって政虎と改めると、上杉家の菩提寺にもなる。1570年、政虎から更に名乗りを変えていた輝虎は、この寺で剃髪して不識庵謙信と号し、一番知られる呼び名「上杉謙信」が誕生した。

 1598年、謙信の跡を継いだ景勝が、会津へ転封となると、新たに春日山城主となった堀秀治の庇護を受ける。江戸時代に入って堀家が改易となると、高田城を築いて高田藩主となった松平家や、高田藩最後の藩主となった榊原家など、時の支配者から尊崇を受けた。

(メモ)
 長尾家、上杉家、堀家、榊原家の菩提寺とあって、境内には、上杉謙信、堀秀政、堀秀治の墓がある。高田藩最後の藩主となった榊原家は、徳川四天王のひとり・榊原康政を祖とする名門。
 本堂、山門は江戸時代の後期に焼失しており、山門は大正時代、本堂は平成に入ってから再建された。お寺の入り口にある惣門は春日山城のものを移築したと伝わっている。
 季節限定かもしれないが、春日山城との間でシャトルバスが運行されていて非常に便利。少し離れているが、高田城(続日本100名城)とセットで行くのをおススメする。
春日山城からの移築と伝わる惣門 上杉謙信公の墓 堀秀政公の墓



たかだじょう


高田城絵図

本丸跡
高田城 (新潟県上越市本城町)
天守:なし  続日本100名城
戦国期の主な歴史
1610年 徳川家康六男・松平忠輝が60万石で福嶋城に入る。
1614年 天下普請。忠輝居城として築かれる。総普請は伊達政宗。福嶋城は廃城。
1616年 忠輝改易。酒井家次が10万石で入封。
1618年 酒井家が信濃松代へ移封。松平忠昌が25万9千石で入封する。
1623年 忠昌、越前北ノ庄(福井)藩を継ぐため、高田を去る。
1624年 松平光長(忠昌の甥)が26万石で入封。

(メモ)
 1623年、配流となった松平忠直に代わり、忠昌が越前北ノ庄(福井)藩主となると、忠直の子・光長が藩主となった。その後、光長はお家騒動を起こして改易、1616年に松平忠輝が改易になっている経緯もあって、高田城は印象が悪くなり、以後、何かしらの処分で移封される城となってしまった。最後の高田藩主となった榊原家も徳川四天王のひとり・榊原康政を祖とする名門だが、宗家8代当主・政岑が幕府の倹約令を無視したことによる懲罰的移封だった。
 近世城郭だが、石垣がほとんどない。理由として周辺で良質な石材が得られなかったこと、短期間での築城だったため、石垣を築く時間を割けなかったこと、地盤がゆるく重みに耐えられないと判断されたことなどが挙げられている。
三重櫓(復元) 極楽橋(復元) 土塁と堀